大学教員,科学と教育と音楽について語る

大学教員(気象予報士)でありギター弾きのワタシが,天気に科学に教育に音楽に,日々思う雑感を語ります。

大阪人は「じゃますんで」といったら「じゃますんなら帰って」と言うのか?

 先日,私の講義を受けている学生さんが提出した感想カードの中に「大阪のおばさんは『じゃまするよ』と言われたら『じゃまするなら帰って』と言うのは本当ですがか?」という質問が書いていました。大阪人ならもちろん,大阪の方以外でも吉本新喜劇を少々知っている方ですと,

 

「じゃますんで~」

「じゃますんなら帰って」

「あいよ~,って,なんでやねん!!」

 

という流れ,よくご存知かと思います。

 

一応説明しておくと,「じゃますんで」とは「お邪魔します」ということであり,それに対して「邪魔をするならお帰りください」というやりとり。吉本新喜劇ではオーソドックスなやつです。

 

 吉本新喜劇の影響なのか,或いは大阪の文化なのか,このようなやりとりは私が小さい時から割と普通に友達どうしの会話の中でありました。友人の家に遊びに行ってトイレを借りる際,「トイレかしてな」「いいよ。ちゃんと返してな」「あたりまえや,返すわ!」というようなやりとり。現在私は静岡に住んでいますが,大阪を離れてわかってきたことは,このような日常の中にちょっとしたギャクやボケとツッコミを入れて,何かと笑いをコミュニケーションに混ぜることを大人から子供まで当たり前のようにやっていたということです。まさに大阪の文化ですね。

 

 こういう大阪の文化の中で生まれ育ったせいか,静岡の人たちのコミュニケーションに対して,笑いや冗談が不足していて何か物足りないなと感じることは否めません。講義で学生の前でボケてもツッコミがないどころか,大体は無視です。今の大学に赴任直後,ある教員に「静岡の人たちはボケられると大変困るからボケない方がいいですよ」と言われ,なるほどこういうことかと実感したものです(しかし,授業中の教員のボケに対して,他にたくさん学生がいる中で一人ツッコミを入れるのは,ちょっと勇気がいるので,無理もないよな)。

 

 しかし,実はこれが一番この記事で伝えたいことなのですが,大阪人のみんながみんな日常に笑いをまぜる,ボケるしツッコミをいれまくるわけではありません。大阪人でも引っ込み思案の人もいるし,ボケられたら黙って困ってしまう人もいます。とあるテレビ番組で,大阪人はピストルで「バン!」ってされたら必ず「ウ、ヤラレタ・・・」みたいに反応する,というようなことを実際に街頭でやってみて確かめるというのがありましたが,みんながみんな反応するわけではありません。「はあ?」という人もいますし,困って固まる人もいるでしょう。「じゃますんで」「じゃますんなら帰って」は吉本新喜劇での話なので,普通のおばちゃんがみんなそんなことを言うわけでもありません。同じように,静岡の人でもボケるしツッコミ入れるてくる人もいます。何かと笑いを放り込んでくる人もいます。

 

 背景としてのそれぞれの地域の文化を理解することも大事ですが,その地域の人がみんな同じで「ステレオタイプ」通りであるとも限らない,地域や人を重層的に多角的に見ることが重要ですね。でもこういう視点の大切さを認識できたのは,大阪を離れ縁もゆかりもない静岡に来たからです。色々な地域の人や文化に触れることの面白さ,この記事を書いていて改めて実感します。

地学を選択したことは恥ずかしいこと?

 本日の講義で,「高校の時に地学を選択していた人いますか?」って聞いたら,ゼロ。まあ,よくあることなのでそんなに驚きはなかったです。それよりもショックだったのが,講義後に提出してもらった感想文の中に「実は高校の時に地学を選択していたのですが,誰も手を挙げていなかったので挙げづらかったです」と書いていた学生さんがいたこと。少数派であっても誇りをもって「地学やってました!」って堂々と手を挙げてくれればいいのに。もしかしたらこの学生さん,高校の時に「なんで地学なんて選択してるの?」とか色々言われたのかもしれない(あくまで想像ですが)。そういう背景もあって,手を挙げづらかったということもあったのかもしれません(単純に周りに手を挙げる人が誰もいなかったので挙げづらかった,それだけだったのかもしれませんが)。

 高校で物理や化学,生物に比べて圧倒的に地学が選択されず,また高校で地学の授業をやっていない学校も多いという現状があります。これは私の見解ですが,ここまで地学が選択されない,授業が行われていないことの大きな理由の一つに,受験において地学を選択し勉強するメリットが物理や化学,生物に比べてあまりないということがあると思います。物理と化学や化学と生物の組み合わせの選択の方が受験する学部や学科の選択肢が幅広い。地学が大学入学後も必要となる学部学科といったら,理学部の地球科学系ぐらいじゃないでしょうか。

 日本は地震に火山,台風に豪雨といった地学現象に伴う自然災害が多発する地域であり,これらの災害に伴う被害を軽減するために地学の知識は必要だ,敵を倒すためにはまず敵を知ること,火山や地震,台風や豪雨による災害という敵と戦うためには敵である火山や地震,台風や豪雨を知ること,つまり地学をちゃんと理解することが被害を減らすために重要だ。こういったことが地学教育界隈ではさんざん言われてきました。しかし,そうはいっても目先の受験に合格することが最も重要であり,地学の重要性はわかるが現実問題としてよりメリットの大きい地学以外の科目を選択するということになると思います。

 となると,現在小学校と中学校では全ての児童生徒が地学を学ぶので,この段階でいかに地学教育の充実を図ることができるか,また受験の縛りから逃れた大学でできるだけ多くの学生に地学を学んでもらう機会を提供できるかが重要になってくると思います。もう高校で地学を選択してもらうことはあきらめる(笑)。特に,将来小学校や中学校で地学を教えることになる教員養成課程の学生には地学の重要性や面白さをしっかりわかってもらえる講義を提供することが重要。そのような思いをもちながら,日々自分のオモロイと思う地学を熱く語っているつもりですが,なんだか上手くいっていないような気がして悶々とする毎日。

 「なんや,地学って結構オモロイやん」「まわりに地学えらんでるやつおらんかったけど,勉強してよかった」と一人でも多くの学生に思ってもらえるように,私自身も地学という学問を楽しみながら学び研究し伝えていきたいものです。

 

AIは無個性なのか

 Chat GPTが話題になっておりますが,これについて下記のような記事を書かせていただきました。

yyamane.hatenablog.com

 この記事の中でAIは過去のパターンに基づいて何かしらのことを示してくれるわけであり新しい何かを生み出し示すものではない,そこには個性や創造性はないというようなことを書きました。しかし本当にそうなのか,つまり「AIは無個性なのか」,疑問に思うようになってきました。

 AIがどんどん個性的になる可能性は十分ある。これからますます個性的になっていくはずであり,新しいものを創造する力を発揮するようになっていくと思います。

 人間が何かしらを判断したり創造したりする場合,これまでの経験や体験,知識がベースになっていると思います。何もない無から新しいものを想像,創造したり判断することはないでしょう。過去に学んだり身につけたりしたことに基づいて,その時その時の周囲に対する認知(何を見て感じるのか)なんかも加味しながら新しいものを考え作り出していると思います。過去に何を学び身につけてきたのか,またどうやってそれらを得てきたのか,これらは人それぞれです。各人各様のこれまでの経験や知識,技術,感覚,認知の仕方に基づいて,それらの活用して判断や創造がなされるのであり,その判断や創造に個性が滲み出てくるのだと思います。

 AIも基本的には過去の様々な事柄を学習しそれに基づいて判断したり結果を作り出したりするものだと思います。過去のどのようなことをどれだけ学習させるのかはAIを仕込む人間次第ですが,たくさんの色々な事柄を学習させれば人間と同じような多様な判断が可能となり,そこに創造性が生まれる可能性は十分にあると思います。また,いかなる学習をどのようにさせるのかにより,AIそれぞれの個性が発揮されるでしょう。おそらく人間は過去の膨大な経験を極めて複雑なシステムで相互作用させたり引き出してきたりしていると思いますが,今後AIがそのような人間の脳の情報処理や機能を取り入れながら発展していくと,AIがそれぞれにユニークな個性を持ちながら独自の判断や創造性を発揮することは十分に考えられると思います。

 ではこのような個性的なAIの出現によって我々人間のやることは少なくなっていくのか。私はそんなことはないと思っています。個性的で創造性豊かな助っ人が増えるというだけで,我々はそれを有効活用すればよいだけの話だと思います。結局最終的に判断し行動実践するのは人間ですから。むしろAIの使い方によっては,これまでに想像もしなかったものを生み出すことも可能になってくるかもしれません。インターネットやスマホの出現がウン十年前には考えられないような現在の世界の姿を見せているように。

雲ができるしくみ~その2(コップの表面に水滴が付くわけ)

 さて,雲ができるしくみシリーズ「その2」です。「その1」では「雲は何からできているのか」ということについて説明しました。こちらの記事は以下のとおりです。

yyamane.hatenablog.com

 「その1」の結論,雲は水や氷からできているということでした。では,雲を作っている水や氷がどうやってできるのか,という話なのですが,このことを理解するために,まず「コップの表面に水滴が付くわけ」について説明したいと思います。キンキンに冷えたジュース(お酒好きな方はビールを想像してください)が入ったコップの表面に水滴が付くことは多くの方が知っていると思います。では,なぜ水滴がつくのでしょうか。コップの中に常温の水やお茶,暖かい飲み物が入っているときに水滴はつかないですね。中に入っている飲み物が「冷たい」ということがカギのようですね。

 空気中には水蒸気が含まれています。「水蒸気」とは何か,ということについては,上記の記事(雲ができるしくみ~その1),または下記の「物の状態を原子と分子でイメージしよう」をぜひご一読ください。

yyamane.hatenablog.com

 簡単に説明すると,水蒸気は水分子(H2O分子)が目にもとまらぬ速さで動きまくっている気体の状態のものです。目にもとまらぬ速さで,ということですから,空気中に含まれる水蒸気は目に見えません。ただ,目には見えませんが「体で感じる」ことはできます。空気中に水蒸気がたくさん含まれている場合,私たちは蒸し暑さを感じます。逆に,空気中に水蒸気があまり含まれていない場合,肌がカサカサしたりします。空気が湿っていてジメジメする,と体で感じる場合は空気中に水蒸気が多く含まれている状態,肌がカサカサしたりのどが渇きやすかったり,髪の毛がパサパサするという場合は,空気が乾燥していて含まれる水蒸気が少ない状態ということです。

 このように目には見えませんが空気中に水蒸気が含まれており,その多い少ないを我々は様々な形で体感することができます。では,水蒸気は空気中にどこまでも無尽蔵に含むことができるのか。実は空気の中に含むことができる水蒸気の量には限りがある。定員があるのです。この空気中に含むことができる最大限の水蒸気の量を「飽和水蒸気量」といいます。水蒸気の乗車定員みたいなものです。ただ,この飽和水蒸気量には人間がのるバスの乗車定員とは大きく違う特徴をもっています。それは温度が高いと飽和水蒸気量は大きくなり,逆に温度が低いと飽和水蒸気量は小さくなるということ。バスの乗車定員が気温が高いと多くなる,気温は低いと少なるなるということはありません。でも水蒸気の乗車定員である飽和水蒸気量は温度に左右されるという特徴がああるわけです。つまり,温度が高い空気はよりたくさんの水蒸気を含むことができ,温度が低い空気はあまり多くのの水蒸気を含むことができないということになります。

 我々がよく目にする湿度,空気の湿り気の目安として使われます。湿度とはある温度での飽和水蒸気量に対して実際に含まれている水蒸気の量の割合(%)として定義されています。例えば,温度30℃の空気が1㎥あたり15.2gの水蒸気量を含んでいる場合,この空気の湿度はどうなるか。まず30℃の空気の飽和水蒸気量は1㎥あたり30.4gです。この空気が1㎥あたり15.2gの水蒸気を含んでいるので,湿度は(15.2/30.4)×100=50%となります。つまり,最大限含むことができる水蒸気量(飽和水蒸気量)のうちその半分(50%)の水蒸気量を含んでいる状態ということです。湿度はバスの乗車率のようなもの。定員20名のバスに10名乗っている場合の乗車率は(10/20)×100=50%ですね。定員の半分が乗車している状態。定員20名のバスに20名が乗っている場合は乗車率は100%です。30℃の空気が飽和水蒸気量である1㎥あたり30.4gの水蒸気を含んでいる場合,湿度は(30.4/30.4)×100=100%となり,「もう水蒸気でお腹一杯!」という状態。ちなみに,この「水蒸気でお腹一杯」の状態を飽和といいます。飽和水蒸気量は水蒸気の定員(ただし温度によって左右される),湿度は水蒸気の乗車率です。

 飽和水蒸気量は温度に左右され,温度が低くなると小さくなります。ということは,ある温度で飽和していない状態(まだまだ水蒸気でお腹一杯ではない状態)でも,どんどん温度が下がっていくと,どこかの温度で飽和になるということです。例えば,30℃で1㎥あたり17.3gの水蒸気を含んでいる空気を考えます。この空気の湿度は(17.3/30.4)×100=56.9%であり,まだ水蒸気を含むことができる状態です(まだ30.4g-17.3g=13.1g含むことができる状態)。この30℃の空気を20℃にまで冷やしたとします。20℃での飽和水蒸気量は1㎥あたり17.3gです。ということは,30℃で17.3gの水蒸気を含んでいた空気が20℃まで冷えると,湿度が(17.3/17.3)×100=100%で飽和の状態になります(ちなみに,冷やしていって飽和に達する温度を露点温度といいます)。30℃では17.3gの水蒸気なんて余裕で食べることができていたのに(まだ13.1g食べられるよ!って感じ),20℃になるとその余裕で食べていた量(17.3g)が満腹になる限界になってしまうということです。

 飽和に達した後,さらに空気を冷やすとどうなるか。例えば10℃まで冷やしたとしましょう。10℃での飽和水蒸気量は1㎥あたり9.4gです。30℃で1㎥あたり17.3gの水蒸気を含んだ空気は20℃で飽和に達し,10℃にまで冷えると10℃での飽和水蒸気量は9.4gなので,もともと含んでいた17.3gのうち9.4gは水蒸気として含むことができるが,残り(17.3g-9.4g=7.9g)は水蒸気として空気の中に含むことができず,これが液体の水(水滴)としてでてくることになります(満腹の限界を超えた水蒸気は,これ以上お腹に入らないので,水滴という形でゲロゲロ吐いてしてしまう,という感じ)。つまり,「空気を冷やしていくとその空気に含み切れなくなった水蒸気が水滴として出てくる」ということです。このことの本質は,空気が最大限含むことができる水蒸気の量である飽和水蒸気量が温度が下がるとともに小さくなるということです。

 ここまで長文にお付き合いありがとうございます!いよいよ「コップの表面に水滴がつくわけ」の説明です。冷たい飲み物が入ったコップの表面付近の空気は冷やされます。すると,コップ表面付近の空気の中に含み切れなくなった水蒸気が水滴として出てきて,それがコップの表面に付着するというわけです。

 ここまでの文章での説明を手書きの図にまとめました(汚くてスイマセン)。

 さて,ここで説明したコップの表面に水滴がつくしくみの考え方ですが,同じ考え方で他の色々な現象を説明することができます。例えば,冬の寒い日に暖房のきいた部屋の窓ガラスが曇るということ。この場合,冷たい外気に触れた窓ガラスはキンキンに冷えていて,このガラス付近の空気も冷やされている。部屋の中の空気は暖房がきいて温度が高く,(温度が高いほど飽和水蒸気量も多いので)水蒸気量も比較的多く含まれている。しかし,外気にふれた冷たい窓ガラスの部屋側の表面付近の空気も冷やされているので,含み切れなくなった水蒸気が水滴となってでてきて,これがガラスの表面に付着して「ガラスが曇る」というわけです。

 このように,自然科学では一つの考え方や概念,理論や法則で色々なことが説明されます。色々なことを説明できるからその考え方や概念,理論や法則は真理として受け入れられるわけです。ということは,ある一つの考え方や概念,理論や法則では説明できない新しい現象が発見されると,その考え方や概念,理論や法則は改めて検証され,その結果修正されたりひっくり返されて新しい理論が打ち出されたりするわけです。理科は暗記科目ということを言う人がいますが,それは色々な現象を一つ一つ別個バラバラにしくみを理解しよう(覚えよう)とするからであり,一つの考え方でいろいろなことが説明できるということがわかれば「暗記科目」とは言えないということが理解できるでしょう。一つの考え方や概念,理論や法則で色々なことが説明できるというところに自然科学の本質,面白さがあります。

 まだまだ雲ができるしくみの理解のための説明は続きます。続きは「その3」で。

雲ができるしくみ~その1(雲は何からできているのか)

 空に浮かび色々な形をした雲。青い空にぽつぽつと浮かんでいたり,空一面ベッタリ覆いつくしていたり,キノコのようにモクモク背高くのびたり,雲との出会いはまさに一期一会,全く同じ雲に再び出会うことはありません。

 さて,このように様々な姿を見せる雲,どうやってできるのでしょうか。そもそも雲は何でできているのか。たまには,雲のような何のお腹のたしにもならない話について「へえー」と思うことも,人生のちょっとしたスパイスになるというものです。

 これから雲ができるしくみについて,4つの記事(「その1」から「その4」まで)にわけて説明していきます。

 まず,雲って何でできていると思いますか。大学での講義や天気に関する講演会などでこの質問をすると,「水蒸気」という答えが本当に多い。では,「水蒸気って何?」と聞くと,よくわからないというのがこれまた殆ど。水蒸気とは何かということも含めて,そもそも雲が何でできているのか,あまり理解されていないようです。雲は何からできているのか,これを知らずして雲が発生するしくみの理解はできません。

 まず「水蒸気」とは何か。これについては,以前の記事「物の状態を原子と分子でイメージしよう」を読んでいただければより理解が深まると思いますので,ぜひご一読ください。

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 ここでは簡単にかりつまんで説明します。「水蒸気」とは,水分子が気体の状態にあるものです。全ての物質は細かく細かく分けていくと原子というものにたどりつきます。この原子が幾つかくっついて分子をつくります。例えば,水分子は水素原子(H)が2つと酸素原子(O)が1つくっついた分子で,いわゆる「H2O」というやつです。気体の状態とは,原子や分子がそれぞれ目にもとまらなぬ速さで動きまくっている状態です。固体の状態とは,原子や分子が固く結びついてまとまっている状態。液体の状態は気体と固体の間のような状態で,固体ほどではないが原子どうし,分子どうしがゆる~く結びついている感じ。ただ,気体ほど自由勝手に動き回ってはいないという状態です。ちなみに,原子や分子がどれだけ活発に動きまくっているか,その目安が温度です。温度が高い状態とは,原子や分子がより活発に動きまくっている状態です。

 というわけで,「水蒸気」は水分子が気体の状態にあり,水分子が目にもとまらぬ速さで動きまくっている状態。”目にもとまらぬ”ということなので,気体の状態の水蒸気は目に見えません。というわけで,目に見える雲が目に見えない水蒸気でできているはずはなく,雲を作っているのは水蒸気ではないということになります。

 では,雲は何?ここでよく考えてください。雲から何が降ってきます?雨,雪,ひょう・・・。つまり,水(水分子が液体の状態のもの)や氷(水分子が固体の状態のもの)です。これらが雲から降ってくるのですから,雲は水や氷からできているということになります。

 

【結論~雲は何からできているのか】

雲は水(水分子が液体の状態のもの)や氷(水分子が固体の状態のもの)からできている。

 

 では,どうやって上空で水や氷ができて雲が発生するのか?これについては次以降の記事で説明していきます。

「できる」ということと「自分らしくやる」ことは違う

 先日,ソロギター弾き語りのステージを経験させていただき,色々と思うところを投稿させていただきました。

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 さて今回,ギター弾き語りソロステージに向けて練習をする中で,自分が気持ちよく胸キュンで歌うことができるキーの重要性を意識するようになりました。キーというのは,詳しい話はさておき,カラオケでキーを上げてとか下げてとか,原曲のままで,というふうに言っているあのキーのことです。このキーをどう設定するかによって,自分にとっての歌いやすさや感情の入れやすさがガラッと変わってきます。歌い手にとって歌いやすい,気持ちが入れやすいということは,キーの設定次第でお客さんへの歌の伝わり方もガラッと変わってくるということです。つまり,キーを下手に設定すると台無しになる,逆にキーをうまく設定すると,超一流のパフォーマンスも期待できる(笑)ということです。

 私はこれまで,キーを変えて歌うのは原曲の魅力を失うかもしれないというような考えから,原曲のキーのままで歌った方がよいと思い込んでいたところがあったことに気付きました。加えて,原曲キーのままでも声が出るからOK,ということで原曲キーのままで歌うということが多かった。キーを原曲から変える場合は,音域が高すぎて声が出ないからという理由が殆どだった。要するに,声が出るから原曲キーのまま,声がでないからキーを下げる,自分ができるかできないかでキーの設定を決めていたわけです。

 しかし今回,ソロ弾き語りに向けて練習する中で,原曲とは違うが明らかにこっちのキーの方が自分は気持ちよく胸キュンで歌えるというキーがあるということに今更ながら気づきました。音域的に声は十分出るけど,より低いキーにした方が自分の感情が表現しやすい,曲の世界に入り込むことができる。声が高く出たり指が速く動いたり,技術的に問題なくできたとしても,曲に気持ちが入らなければ聞いている人には伝わらない。「できるということ=よいパフォーマンス」には必ずしもならないということです。単に「できた」としても,それだけだったら無味乾燥な演奏や歌になりがちで(しかも「できた」自分に自己満足しがち),そこに表現者のオリジナリティーは感じられないでしょう。

 技術は伝えたいことを伝えるための手段,道具に過ぎない。技術はハートを伝える手立て。ハートがなければ伝わらない。色々な歌い方,キー,ギターの指盤上のポジショニングを試みて,自分がしっくりくる形を探求することの重要性を認識しました。もっと自分の気持ちに正直に音楽に向き合うこと。

 ただ,ハートがあってもあまりに技術が未熟だったら,それはそれで問題。伝わるものも伝わりませんから。技術の向上に努めることも大切なことは言うまでもないです。

ソロってなんだろう・・・

 先日,ソロ祭というイベントに参加させていただき,初めて本格的にギター弾き語りをさせていただきました。このイベント,今までバンドやデュオなどで活動してきたけどソロは初めて,或いは,ピアノでソロをやってきたけどギターでソロは初めて,というような方々が主に参加されるものでして,皆さんご自分にとっての新しい形で色々な表現をされていて,とてもいい刺激をいただきました。実はこれまでに遊び程度でのソロ出演は何度かあったのですが,今回のように丸ごと自分一人に時間が与えられてそこでパフォーマンスするガチのソロは初経験となりました。

 さて,このソロライブに向けてずっと練習をしていたのですが,改めて思ったのは,ギター弾きながら歌を歌うって難しいなあということ。歌うだけ,ギター弾くだけ,それぞれだけならばまあまあできるけど,この二つを同時にやると「なんか違うな」となってしまう。ギターのコード進行が気になって歌がおざなりになったり,その逆もあったりで。時々,「なんで二つ一度にやらなあんねん」と一人で少々キレ気味になったり(笑)。一人でやる意味がわからなくなることも多々ありました。

 ただ,本番が近づくにつれ,自分で自分をいかに感動させるかことができるか,その大切さがソロの練習という自分と向き合う中でわかってきました。自分は何をどう表現したいのか,自分が音楽で感動できるポイントはどんなところか,どう弾いてどう歌えば自分で自分をトキメカセルことができるか,そんなところが何となくつかめたような気がします。そして,自分でやって自分が感動できる音楽ができれば,聴いている人にもそれが伝わる。自分が音楽をただ聞くだけではなくて演奏する意味は,その感動を他の人ととも分かち合いたいということ。自分の音楽で他の人もハッピーになれば自分もハッピー,ということなんですね。一人でもいいから,自分の表現する音楽で感動したり元気になったり,若かりし頃を思い出して胸がキュンとなったり,そういう思いが伝われば嬉しい。ソロで自分と向き合う中でそんな思いを持つようになりました。

 今までは,自分の演奏を聴いている人にいかに「上手い」と言ってもらえるかどうか,そこばかりに気が向いていたような気がする。なので,演奏中も悪い意味で人の目ばかりが気になる。そうすると自分の気持ちを置き去りにして,心の入っていない演奏になる。自分も自分の演奏を聴いてくれた人もハッピーになれない。自分が音楽をやることの意味もわからなくなってくる。そんな状態になっていたような気がします。

 自分が好きでワクワクしてドキドキして胸がキュンとする音楽をまずやって,それを聴いた人が「いいな」と思ったり,或いは「一緒に演奏させて」という感じで一緒にやる中でデュオやバンドになっていったり,自分発の音楽から人が繋がり皆が幸せになれる。そうなればいいな,そういう音楽活動をしていきたいなと思うようになりました。

 自分が音楽をやる意味,胸キュンのオスソワケですな。