大学教員,科学と教育と音楽について語る

大学教員(気象予報士)でありギター弾きのワタシが,天気に科学に教育に音楽に,日々思う雑感を語ります。

大学の教員はみんな「教授」?

 大学で教員をしていると,しばしば学生から「教授!」とよばれます。あるいは,学生からのメールの宛名に「●●教授」と書かれていたりします。私が「講師」や「准教授」の時,「教授」とよばれたり書かれたりすると,「まだ教授じゃないのになあ」と正直思ったものです。しかし,大学の教員といえばみんな「教授」と思っている方は,案外多いのかなと思います。大学を舞台にしたドラマなんかでは,学生や研究員らしき人が「教授!」とかよく言ってますよね。しかし,大学の教員がすべて「教授」ではありません。「教授」や「准教授」は職位とよばれるものであり,会社でいえば「部長」や「課長」に相当するものです。なので,「課長」さんに「部長!」っていうのは,どうですかねえ・・・。場合によっては少々気まずい感じになるかもしれません,「俺,まだ部長じゃないねんけどなあ・・・」。

 

 今回は大学における職位について書いてみたいと思います。

 

 大学教員の職位には「教授」「准教授」「講師」「助教」があります。位と言っているので,序列があり,上位の職位から,

 

教授

准教授(その昔は「助教授」と言ってましたね)

講師

助教

 

となります。

 

 基本的には,勤続年数が長くなり,それに伴い業績も増えていって職位が上がっていくことになります。大学院を修了したばかりの若手が大学教員になる場合,「助教」あるいは「講師」として任用されることが多いと思います。その後,順調に経験と業績を積んでいけば「准教授」→「教授」と昇進していくことになります。大学ごとに昇進の基準があり,原則それに従って審査されてOKならば昇進していくことになります。

 

「教授」の数には決まりがあり,足りない場合は「准教授」の教員の中から昇任の基準を満たす人が教授に昇進することになります(「講師」から「教授」,或いは,「助教」から「教授」はあんまり聞いたことがありません)。あるいは,自薦のような形で自ら教授になることを希望して審査を受けて,晴れて「教授」になるという大学もあると思います。また,あえて「教授」にならないという人もいます。「教授」になると学内の責任ある立場,役割を担うことが多くなります。学部長や学科長は基本的には「教授」がなるでしょうし,●●委員会の委員長とかです。そういった役割を担うと研究や教育にかける時間が確保できなくなるということで,あえて「教授」にならないという人もいます。

 昇進する場合の業績は,研究論文などの学術的なものもあれば,大学内での業務(委員会活動,卒業研究の指導,入試広報や授業改善など)に関するものも審査の対象となります。

 

 医学部を舞台にしたドラマ「白い巨塔」は有名ですね。このドラマでは,財前吾郎が「助教授」から「教授」になるときに,なかなかの凄まじい戦いというか駆け引きがあり,ここがこのドラマの一つの見どころになっています。しかし,私が「准教授」から「教授」になるとき,あるいは私の近辺で誰かが「教授」になるとき,「白い巨塔」でのようなドロドロはなかったし聞いたこともないです。だからと言って,あんなドロドロは完全にフィクションだとも思えず,もしかしたら私の知らないところではあるのかな,いやあるにちがいないと思っています。大学って学部が違うと考え方や人間模様とか,かなり背景や環境,雰囲気が異なり,学部や分野ごとの文化の違いに驚かされることが結構あります。

 

 ある大学の「准教授」が他の大学に移る場合,私の知る限り,同じ職位の「准教授」あるいは職位が上がって「教授」で採用されることが多いように思います。ただ,時々「教授」だった人が移った先の大学では「准教授」で採用されることもあります。移った先の大学の研究環境が良いとか家庭の事情などの理由で,職位が下がってでも他大学に行く,行きたいというケースがあります。

 

 上でも書きましたが,「課長」に「部長」とは言わないのと同じように,「准教授」に「教授」とは言わないですね。気を悪くする教員もいるかもしれません。なので,1年生が入学した最初の時に,大学教員の職位の説明をすることにしています。高校までには考えたこともなかったでしょうから,最初は戸惑うかもしれませんが,大学に入ったからには知っておいた方がいいことだと思います。

あいまいな日本語

 昨日,私が担当している「地学実験」のレポートを,学生一人一人に改善点等を直接口頭で伝えながら手渡しで返却しました。今回特に多く指摘したのは「あいまいで持って回った表現」に関して。例えば,

 

~における気圧の減少は低気圧の影響によるものと考えられる。

 

という表現。これを読むと「影響と具体的に何?」ってツッコみたくなる。また,日本語では「~と考えられる」「~と思われる」という表現がよく使われる。一歩引いて自分が断定するというニュアンスを弱めるべくこのような表現を使います。私は,実験レポートや科学論文においては,こういう断定をさける表現はあいまいさを生む要因になり得るので避けた方がいいと考えています。

 

 そういうわけで,上記の文章を,

 

~における気圧の減少は低気圧の通過によるものである。

 

というように,シンプルに言い切る形で書いた方がよいということで学生たちに話をした次第です。

 

 他に多く指摘したのは,結果(Results)において,図や表において見られることをダラダラ不必要に細かく書くのではなく,何が重要で何を考察すべきかをよく考え,その上で焦点を絞って書くということです。そもそもレポートや論文では結論として言いたいことがあり,その言いたいことを自分が行った実験や解析の結果に基づき文献などを引用しつつ考察を加えて述べるわけです。結果で述べることが自分が伝えたい結論を下支えするものでなければならない。なので,結果では自分の伝えたいことの証拠となる部分に焦点を絞って記述するべきだと思います。結果でダラダラとグラフに見られることを書くということは,結論として自分が何を伝えたいのか,伝えるべきなのか見えていない,この実験では何を理解し身に付けるべきなのかわかっていないということなのです。そんな調子ではいくら頑張って時間をかけて実験をしてレポートを書いてもほとんど何も身に付かないでしょう。

 

 大学の授業としての実験において毎回のテーマは教員から与えられるもの。かならずしも興味関心のあるものばかりではないかもしれない。しかし,いかなるテーマにおいても,自分なりの目的意識を主体的に考えて見つけて設定し,その目的を完遂すべく実験とレポートの作成に取り組む,そういう姿勢で臨んでほしいと伝えました。

試験は教員にとってもツライ

 以前,教員という職業は学生と同様にながーい夏休みがあるのでは,とよく言われるけど,実はそんなことはない!ということを投稿しました。

 

yyamane.hatenablog.com

 

 多くの大学では,夏休みに入る前に試験があると思います。この試験が終われば学生たちは「わーい,夏休みだ!」となるわけですが,教員にとってはとても辛い作業が待っています。大学は夏休みに入りますが,教員(職員も)にとっては休みどころか,一年でも指折りの忙しい時期となります。

 

 ところで大学での試験は,試験期間中に行わる筆記試験であったり,筆記試験ではなくレポートを提出する等,色々な形があります。筆記試験をやったりレポートを提出したりすることはなく,普段の提出物や小テストの積み重ねで成績が評価される場合もあります。

 

 教員や科目によって色々な試験の形はありますが,最終的には必ず教員による成績評価がなされます。「秀」「優」「良」「可」「不可」といった形で成績が評価されます。これらの評価は点数に応じてなされることが多いかと。例えば,私の大学では「秀」は90点以上,「不可」は60点未満です。

 

 点数の付け方も様々だと思いますが,例えば,これまでの提出物や小テストで30点,期末の筆記試験で70点の合計100点満点で評価といった形があります(提出物,小テストの結果,期末の筆記試験など,それぞれを何点の配分にするかというのは様々でしょう)。これらの点数の配分,何の配点の比重が大きいかということはシラバスに大抵掲載されているはずなので,シラバスをしっかりチェックして,自分が受講する科目は何が重視されているのか,どこに注力すべきかを把握しておくことは,単位取得のみならずより良い成績で単位を取ることにおいて重要です。日頃の提出物や小テストの配点が高く重視される場合は,提出物は期日までにしっかり出す,毎回の小テストは高得点をとる,といった常日頃からの対応の積み重ねが重要となるわけです。

 

 色々な試験の形があるので,それに対応する学生さんも大変かと思います。しかーし,教員も大変なのですよ!何が大変かなのか?それは「採点」です。

 

 そう,試験が終わり学生達は「夏休みだ!」と解放された気分になる一方で,教員に待ち受けている試練,それが「採点」なのです。

 

 受講者数が多いと答案やレポートの量が多いから大変ということもありますが,受講者の数がそれほど多くなくても大変なことも多々あります。例えば,記述式の筆記試験の採点。選択肢を選ぶだけのものだったら採点は比較的簡単ですが,記述式の採点は答案の文章をよく吟味して採点する必要があります。答案文章の書き方も学生によって多種多様。一度読んで「はい,これは10点」といった感じでスンナリ行かないことが多々。「うーん,これは5点かな」「この要件が抜けているから1点減点かな」といった具合に,採点基準を何度も読み返しつつ答案の文章を読むことを繰り返しながら採点してきます。中には,わけのわからない文章,全く問題と無関係の文章を書いていることもあります。学生からすれば,とにかく何か書けば部分点ぐらいはもらえるかも,ということでとにかく必死に苦し紛れに何か書いてくるのでしょうが,正直これは採点する方からすればとっても迷惑です。「わけわからん」「関係ないし」ということで,適当に読み飛ばすわけにもいかず,ちゃんと読んで根拠を持って答案文章をゼロ点と採点する必要があります。

 

 先ほど答案文章は学生によって多種多様と書きましたが,そうは言ってもある問題に対する学生達の文章は書きぶりや内容に共通するところもあり,極端に学生によって違うということもありません。なので,何人分か採点をしていくと回答のパターンがつかめてきて採点がスムーズになってきます。

 しかし,他にもやっかいなことが時々あります。最初に作った採点基準で採点を進めていくと,想定していない視点で書かれた回答があったります。「そうか,それもアリだな」となると,採点基準を変更することになります。そうすると,変更した採点基準でもう一度採点済みの答案をもう一度採点し直すということがあります。これを何度か繰り返すこともあり,そうなるとかなり時間がかかることになります。

 

 まあ,そうやって苦労して採点をするわけです。採点後はレポート等の提出物の状況を加味したりして最終的な点数を算出し成績評価が終了です。次はその成績評価を大学のシステムに入力して,これで成績処理が終了します。

 ああ,これで全て終わった!しか~し,このまま全て終わることもあれば,そうでない場合もある。というのは,体調不良等で試験を欠席した学生のための追試があったりする。そうすると,追試の問題を新たに作成しその採点,成績登録の作業をすることになります。大抵は追試の人数はそれほど多くないので,本試験ほどの負担ではないのですが。

 

 このような試験の成績評価に関する作業が夏休みの中盤くらいまであったりします。

 

 さすがにお盆の時期は休暇を取りますが,8月末に締め切りの書類(科研費の申請など)もあったりするので,お盆休み中も家でパソコンで作業をしたりすることもある。講義がある期間は長期の海外出張は基本難しい(なるべく休講はしない方がいいので)ので,夏休み期間中に海外出張を入れることが多い。後期の開始が近づいてくると,後期の講義の準備もそろそろ始めなきゃということがあったり。そうこうしているうちに,結局あっというまに夏季休暇期間は過ぎて後期が始まるわけです。

 

 こんな感じで,大学教員にとって夏休みって「あったの?なかったの?あったんか~い」というふうに過ぎていくのが毎年のことなのです(まあ,これは私の場合の話ですが)。

歴史は現在から学ぶほうがよい

 9年前にフェイスブックで以下の文章を投稿しました。自分で書くのも恥ずかしいですが,まあまあいい事書いているかなと思ったので,少々加筆修正してこちらのブログにも掲載したいと思います。

 

www.facebook.com

 

 最近,歴史は現在から学んだ方がいいのでは,と思うのだがどうだろうか。学校の教科書のように,古代,中世,近代,そして現代,というように過去から現在までを「順序良く」学ぶというのではない,それとは逆の流れで学ぶかたち。


 プロのミュージシャンの中にはただ楽器が上手いだけでなく,そのミュージシャンががメインとするジャンルの背景となる歴史にとても詳しいプレイヤーが結構いる。例えばジャズミュージシャンについていえば,ジャズの成り立ちや歴史,ジャズで典型的に使われる楽器の歴史などについてとっても詳しい方がいる。

 

 今現在において何かを極めようとすると,過去からこれまでの流れ,成り立ち,歴史について知りたいと思うようになることはある意味自然なことかもしれない。物事を深めようという中で今自分がやっていることってそもそも何?という根源的な問いはしばしば発生するだろう。そういうわけで歴史を知りたくなる。逆に言うと,歴史を求める気が起こらない場合はまだまだその物事を深めようという気概,熱意が足りないと言えるのかもしれない。


 というわけで,学校で勉強する歴史も現代からの視点,今現在の事柄をまず深く見つめて,ではそれはどのような過程を経て今に至るのか,という流れの歴史の学び方がもっとあってもよいのではと思うわけです。いきなり紀元前とかの話から始められてもなんだか実感が湧かない,そして歴史を学ぶ意味がわからなくなる,歴史はつまらない,でも試験に出るからとりあえず覚える,という消極的な学びになってしまうということはないでしょうか。


 歴史のみならず学問一般についても同様なことが言えるかもしれない。大学では体系化された学問をお決まりの順序で教授されていくわけだが,体系化された学問の始めの方に出てくることって初学者にとってはそれを学ぶ意味がイマイチわからなくて「つまらない」と思うことが多いのではないでしょうか。一通り学問を修めた人間からすると,それらは基礎基本でとっても大事なのだということはわかるのだが。こういうわけで,大学の勉強が「ツマラナイ」「役に立たない」と思うようになる。もっと学問分野の最新の話題や疑問,未解決の課題といったところから話を始める,それらを理解,解決するにはこういうところからまず学び始める必要がある,というような講義の在り方もいいのでは,と最近思う。

 

 とまあ,9年前のこの自分の文章を読んでなるほどと思いつつ,では今振り返って日々の大学での自分の講義で上述のことを意識しているかというと,すっかり忘れていたなあと気付いてしまった(汗)。どちらかというと,いわゆるお決まりの順序で色々なことを授業で取り扱ってしまっていることが多くなっていた。というか,自分が面白いと思う視点での題材の取り上げ方をもっとしなきゃと改めて思う次第。

 

 自分の書いた文章を読んで自分で気づく。なるほど,その時その時で思ったことをどんな形でもいいから文章として形として残すことは大切です。

 

 

科学における謙虚さ

 何かにつけて違和感を感じることが多い私ですが,ここ最近特に気持ち悪いなあと思ってしまうのがいわるゆカタカナ語。ファクト,コンプライアンスコモディティシナジーコンピテンシーアジェンダ、などなど。会話やメールの文章に結構頻繁に放り込んでくる人もいますね。日本語でええやん,て思うこともしばしばです。

 エビデンス,これも本当によくでてきますね。エビデンスを示せ,これについてはエビデンスがありますか?,とか。科学的に証明されていることにはエビデンスがあり,そのエビデンスは多くの場合論文,特に査読付き論文というものに示されている。よって,何かしらの主張をする場合に,その根拠として「エビデンスを出せ」や「論文で示せ」とか,そういったことが言われたりするわけです。SNSをながめていると,例えばコロナやコロナワクチンに関する何かしらの主張に対して,エビデンスはあるのか,論文出ているのか,或いは,論文書いて主張せよ,といったコメントをよくみかけます。

 でも査読付き論文になっていれば,その内容は本当に正しいのか。エビデンスがあればそれは真実なのか。そもそもエビデンスとは何か。そもそも正しいとは,真実とは何か。そんなものはあるのか。

 エビデンスを基に何かしらを主張すること自体は否定しません。査読付き論文という専門家の厳しいチェックを経た論文は学術的に価値のあるものだと思います。ただ,エビデンスや論文があれば全て正しいとは限らない。多くの場合,論文で主張される内容は,ある事柄に対してある特定の視点や観点から客観的,論理的に考察したことについて記述される。その視点や観点からみればそれは「正しい」のかもしれない。しかし,同じ事柄でも違う視点や観点からみれば,全く違う結論が得られることも往々にしてあり,それも「正しい」。円柱を真横からみると長方形(または正方形)に見える。でも真上からみれば円に見える。どちらの見え方も「正しい」。あらゆる視点や観点から見ることで「実は円柱である」という真実がわかってくる。

 専門家が長方形に見えると言っている,論文も出ている,エビデンスがある,なので長方形だ。円とか言うやつは陰謀論者だ!というような主張をSNSでよく見かけます。私はこういう主張に対して「謙虚さがないなあ」と思ってしまう。ある視点で見た一つのエビデンスがあるものの,見方を変えれば違うエビデンスが得られ,違う結論が得られるかもしれない。ここでいう謙虚さとは,こういった健全な疑いを常に持ち,色々な意見にまず真摯に耳を傾けるということです。色々な見方や考え方をフラットに議論する。その結果,誰もが納得する結論は得られないかもしれないが,私はそれはそれでいいと思う。議論し続ければよいのだ。

 そもそも我々人間ごときに神羅万象についてあれが正しいこれが間違っていると言えるほどの力量,見識があるとは思えない。ただ,真実を知る,真理を明らかにすることをいつまでも目指して,謙虚さを持って科学の議論をすることは大事にしたい。

 それから,エビデンスがない,論文で示されていないなら主張するな,という風潮はよくない。そもそも最初は感覚や直感で「こうかもしれない」というのがまずあって,じゃあそれをちゃんと調べて確かめようということでエビデンスが得られ,論文が書かれるわけである。最初から直感や感覚,主観はあいまいでアテにならない,そんなものに基づいて物を言うな!とか,専門家ではないなら黙ってろ!というのは,我々が世界をちゃんと理解認識しようとすることへの著しい妨害である。色々な人の様々な直感や思いつき,それらを丁寧に拾い上げ,「謙虚に」追求していく。そうすることで,我々の神羅万象に対する多様な理解が広がっていくのだと思う。

バングラデシュで感じた日本との違い~その2(繋がりを大切にする)

 さて,実は今年入って初めてのブログとなります。みなさま,本年もどうぞよろしくお願いします。昨年1月から書き始めたこのブログ。上半期はまあまあ頑張って書いて投稿しておりましたが,下半期に失速してしまい記事はほぼゼロでした。今年はなるべくコンスタントに投稿していきたい(と書いておいて,この2月の段階で本年初の記事という状態・・・)。書くことで自分の頭の中の考えが整理,明確化されます。そのようなブログの効用もありますので,今年は投稿を増やして頭の整理を図りつつ,多くの方に発信できればと思っております。

 

 2024年といいますと,実は私がバングラデシュで調査研究をはじめて22年目。改めて,20年以上もバングラデシュと関わり続けているのかと感慨深く思うと同時に,こんなに長くお付き合いすることになるとは予想外でもありました。というのも,そもそもは自分の方から積極的にバングラデシュに行こうと思ったわけではなかった。初めてバングラデシュへ行った当時,大学院生だった私の指導教員からたまたま「あんた,バングラ行くか?」と言われ,「旅費も出すよ」ということで,「タダで海外行けるならまあ行ってもいいか」という感じで,軽い気持ちで行くことにしたのがキッカケだったのです。なので,まさかこんなに長くバングラデシュと関お付き合いすることになろうとは当初想像もしなかったわけです。

 

 長いお付き合いに繋がる出会いというのは,意図せず偶然からはじまるということが結構ありますよね。その出会いがどうなるか,まったく予測不能。だからこそ,一期一会。

 

 さて,「繋がり」つながりで,今回はバングラデシュで感じた人々の「繋がり」を大切にするところについて書いてみたいと思います。

 

 長いことバングラデシュで調査研究をしていると,バングラデシュの人どうしの繋がり,人的ネットワークの広さに驚き,そしてそれに助けられることが結構あります。

 

 バングラデシュ北部の都市マイメンシンにあるバングラデシュ農業大学の研究者を訪問した際の話。バングラデシュでの移動において,レンタカーを運転手さん付きで借りることがしばしばあります。この時もベンガル人のドライバーと共にレンタカーでマイメンシンへ。農業大学に到着して訪問先の研究者と色々と話をしていると,その研究者が「あのドライバーは以前も一緒に来てたね」と。申し訳ないが,レンタカーを借りた張本人の私が全く記憶になく,「よう覚えとるな」と感心しました。また,とある場所で仕事を終えてドライバーに車で迎えに来てもらうため電話しようとしたら,その研究者の方が「私が電話するよ」,と。いつの間には研究者の方とドライバーの方は電話番号を交換していたのです。バングラデシュではよく初対面どうしで気軽に携帯電話の番号を交換しているのを見かけます。推察ですが,またいつか何かの機会で会ったり,或いは会わずとも何かの用事で電話ぐらいするかもしれないと思い,とりあえず連絡先を交換しておこう,という感じなのかもしれません。こうやって人と人の繋がりのネットワークをどんどん広げているのかなあと思ったわけです。

 

 こんなこともありました。空港でクレジットカードを使ってATMでキャッシングをした時,最後にカードを取るのを忘れてしまい,それに気付いてATMに戻った時にはカードがなく,その後すぐにカードの利用停止をカード会社に連絡したりして,少々面倒なことになったことがありました。その話をとある研究者の方にすると,「それ,どこの銀行のATM?」と言われ,「〇〇銀行」と答えると,「〇〇銀行に知り合いがいるから電話でちょっと聞いてみる」と言ってすぐに携帯で電話をしてくれました。すると,一定時間カードが引き取られなかったため,ATMの機械の中にカードが取り込まれたらしく,カードはその銀行の空港近くの支店で保管されていることがわかりました。後日,その支店に行くと,丁重に(多分,研究者の方のツテみたいな感じゆえに)支店のちょっとエライ感じの方のオフィスに通され,自分のカードを返却してもらいました(既にカードは利用停止になっており,もう使えないわけですが,妙に安心してしまいました)。

 

 何か問題が起こった時,知り合いがいるから聞いてみる,みたいな感じで現地の研究者が人的ネットワークを使って色々動いてくれて問題が解決に進むことがしばしばあるのです。日本ではこんなことあんまりないと思いませんか。私,銀行の知り合いなんていませんよ(私のネットワークの狭さを痛感)。

 

 ダッカの街のあちこちに紅茶を出す屋台があるのですが,そこでは多分初対面であろう人たちがまるで知り合いのように会話で盛り上がっているのをよく見かけます。知らない人でも話しかけずにはいられない!って感じ。そうやって自然とネットワークは広がっていくのでしょう。このような人と人のネットワークはバングラ社会の中で重要な基盤になっていると思います。その反面といいますか,繋がりがないと物事が進みにくい部分もあるかな,という気もしております。

バングラデシュで感じた日本との違い~その1(ストレートな表現)

 私,気象の研究者ですが,日本の気象ではなくバングラデシュをフィールドに研究を行っています。バングラデシュで何を研究しているのか,また改めて別のブログで記事を書きたいと思いますが,ここではざっくりと説明をしておきましょう。

 あまり知られていないのですが,実はバングラデシュは世界的に「竜巻」の発生が多い国なんです。このことを初めて知ったのは大学院修士課程に入学した直後。しかもあまり研究がなされていない。ひろーいインド亜大陸の中でバングラデシュという限られた領域に竜巻が集中的に発生する,「なんでやねん?」という大きな疑問を持ったのがバングラデシュでの研究の始まりです。

 

 なぜバングラデシュで竜巻の発生が集中するのか?

 バングラデシュで竜巻が発生する時としない時の気象条件の違いとは何か?

 

そのようなことを主に研究しています。

 初めてバングラデシュを訪問したのは2002年7月。実はその時,海外旅行が人生初めてであり,飛行機に乗るのも初めてという初めてづくしでした。バングラデシュへは直行便でなく,バンコクで一泊してバングラデシュへ行くというフライでした。初めて飛行機に乗り込む関空で既にキンチョー状態でしたが,初めて足を踏み入れる海外となったタイのバンコクではさらにキンチョー,そして翌日のバングラデシュの首都ダッカへ到着した際にはキンチョーを超越して衝撃につぐ衝撃を受けてしまいました。正直,「えらいとこにきてもうた~」と思ってしまった。その衝撃たるやとても一言で言えず。その時受けた衝撃も含め,その後何度もバングラデシュ渡航して感じてきた日本との違い,そういったことを書き留めておこうと思ったのがこの記事を書く動機なわけです。今後も思いつくままに書いていきたいと思うので,今回は「その1」と付けさせていただきました。

 今回書いてみたいと思ったことは,いわゆる「謙遜」というものに関係することかと。ちょっと一歩引いて相手を立てるというような。日本では,「愚息」という言葉があるように,自分の子供のことをストレートに「うちの子はとっても優秀だ!」というふうに言うことはあまりないかと思います。例えば「息子が東大に合格した」という場合でも,ちょっと一歩引いたように「いやあ,模試ではずっとE判定で,合格するとは全然思ってなくて。まあ,試験の問題がたまたま相性がよかったのか,運良く合格させてもらいました」といった感じで言うことが多いのではないでしょうか。

 一方バングラデシュの人たちは,「~大学に合格した」「~試験に合格した」「~試験で高得点を取った」ということを割と「うちの子スゴイ!頑張った!」という感じでフェイスブックで投稿したり,直接話をしていても「ウチの子は~大学で~を学びすごいよくやっている」というような感じです(あくまで私の個人的受け取り方ではありますが)。

 ただ,そういう投稿や話を聞いても全然嫌な感じはしません。そもそも悪い意味での自慢や自己顕示のような気持ちもないと思います。単純に純粋に自分の身内を誇りに思う,そのストレートな思いを表現しているだけだと思います。なので,こっちも純粋に「すごいな,頑張ってはるなあ」と感じます。バングラデシュの人たちと接していると裏の気持ちを感じることは日本ほどはなく,割とストレートに思いを言ってくるように感じます。もちろん,バングラデシュの人々にも本年と建前はあると思いますが,日本ほどではないように感じますね。私にとってはそのようなコミュニケーションの方が割と合っているみたいで,バングラデシュにいる時の方が人間関係がちょっと楽に感じます。なので,日本にいる時よりもバングラデシュにいる時の方が気持ちが楽です。日本はしんどい・・・。

 なんでもかんでもストレートに表現すればよいとは思いませんが,心からの正直な思いや考えを直球で伝えることも大切,バングラデシュの人々と接するとそのように改めて思うわけです。