大学教員,科学と教育と音楽について語る

大学教員(気象予報士)でありギター弾きのワタシが,天気に科学に教育に音楽に,日々思う雑感を語ります。

科学における謙虚さ

 何かにつけて違和感を感じることが多い私ですが,ここ最近特に気持ち悪いなあと思ってしまうのがいわるゆカタカナ語。ファクト,コンプライアンスコモディティシナジーコンピテンシーアジェンダ、などなど。会話やメールの文章に結構頻繁に放り込んでくる人もいますね。日本語でええやん,て思うこともしばしばです。

 エビデンス,これも本当によくでてきますね。エビデンスを示せ,これについてはエビデンスがありますか?,とか。科学的に証明されていることにはエビデンスがあり,そのエビデンスは多くの場合論文,特に査読付き論文というものに示されている。よって,何かしらの主張をする場合に,その根拠として「エビデンスを出せ」や「論文で示せ」とか,そういったことが言われたりするわけです。SNSをながめていると,例えばコロナやコロナワクチンに関する何かしらの主張に対して,エビデンスはあるのか,論文出ているのか,或いは,論文書いて主張せよ,といったコメントをよくみかけます。

 でも査読付き論文になっていれば,その内容は本当に正しいのか。エビデンスがあればそれは真実なのか。そもそもエビデンスとは何か。そもそも正しいとは,真実とは何か。そんなものはあるのか。

 エビデンスを基に何かしらを主張すること自体は否定しません。査読付き論文という専門家の厳しいチェックを経た論文は学術的に価値のあるものだと思います。ただ,エビデンスや論文があれば全て正しいとは限らない。多くの場合,論文で主張される内容は,ある事柄に対してある特定の視点や観点から客観的,論理的に考察したことについて記述される。その視点や観点からみればそれは「正しい」のかもしれない。しかし,同じ事柄でも違う視点や観点からみれば,全く違う結論が得られることも往々にしてあり,それも「正しい」。円柱を真横からみると長方形(または正方形)に見える。でも真上からみれば円に見える。どちらの見え方も「正しい」。あらゆる視点や観点から見ることで「実は円柱である」という真実がわかってくる。

 専門家が長方形に見えると言っている,論文も出ている,エビデンスがある,なので長方形だ。円とか言うやつは陰謀論者だ!というような主張をSNSでよく見かけます。私はこういう主張に対して「謙虚さがないなあ」と思ってしまう。ある視点で見た一つのエビデンスがあるものの,見方を変えれば違うエビデンスが得られ,違う結論が得られるかもしれない。ここでいう謙虚さとは,こういった健全な疑いを常に持ち,色々な意見にまず真摯に耳を傾けるということです。色々な見方や考え方をフラットに議論する。その結果,誰もが納得する結論は得られないかもしれないが,私はそれはそれでいいと思う。議論し続ければよいのだ。

 そもそも我々人間ごときに神羅万象についてあれが正しいこれが間違っていると言えるほどの力量,見識があるとは思えない。ただ,真実を知る,真理を明らかにすることをいつまでも目指して,謙虚さを持って科学の議論をすることは大事にしたい。

 それから,エビデンスがない,論文で示されていないなら主張するな,という風潮はよくない。そもそも最初は感覚や直感で「こうかもしれない」というのがまずあって,じゃあそれをちゃんと調べて確かめようということでエビデンスが得られ,論文が書かれるわけである。最初から直感や感覚,主観はあいまいでアテにならない,そんなものに基づいて物を言うな!とか,専門家ではないなら黙ってろ!というのは,我々が世界をちゃんと理解認識しようとすることへの著しい妨害である。色々な人の様々な直感や思いつき,それらを丁寧に拾い上げ,「謙虚に」追求していく。そうすることで,我々の神羅万象に対する多様な理解が広がっていくのだと思う。