大学教員,科学と教育と音楽について語る

大学教員(気象予報士)でありギター弾きのワタシが,天気に科学に教育に音楽に,日々思う雑感を語ります。

機械は多少不便なところがあってもいい

 技術の発展により機械はどんどん使いやすくなっています。そのような中であえて「多少不便な部分があってもいいんじゃない?」という私の考えについて述べてみたいと思います。

 私はもう20年ぐらいマニュアル車を運転しています。最近の若い人からすると,もしかしたら「マニュアル車って何?」という人も結構いるかもしれません。今では「オートマ限定」で免許を取る人の方が多いかもしれません。マニュアル車は走行している速さに応じて自分でギアーを切り替える必要があります(クラッチを踏んで(クラッチを切る)レバーを操作する)。これが「車を操っている!」という感じがして,とても好きなんです。クネクネの山道でマニュアルをカチャカチャ操作しながら走るの結構好きなんです。

 マニュアル車を運転する人は多分,停止するときにブレーキとともにクラッチを踏むように癖がついていると思います。クラッチを踏まないまま減速するとエンストしてしまうからです。なので,万が一ブレーキとアクセルを踏み間違えても同時にクラッチを切っているので「空ふかし」の状態となるので,最近よく耳にする誤発進にはなりにくいように思います。オートマチック車はギアーを自分で選択する必要がなく自動的にやってくれるわけですが,アクセルとブレーキの踏み間違いによる誤発進の可能性は高くなると思います。クラッチを切るという面倒さが誤発進を防ぐことになるわけです。

 便利になるということはその分機械が色々な役割を担うということであり,それは機械がより精密により複雑になるということです。それは我々人間が直接関与できる余地が少なくなるということです。逆に機械に不便な部分があるということは構造がシンプルになるともいえるわけで,その分人間が直接操作しなければいけない部分が増える。この直接操作しなければいけない部分が多くあることによりに,重大な事故に繋がりにくいということもあるのではないでしょうか。しかし人間はミスをしでかす生き物。人間が関与できる余地があればそこから事故が生じることもある。操作において人間の関与がなるべく要らないということは体の不自由な人にとっては便利ですし,自動化して人間が直接かかわる必要がない部分を作るという面も大事。

 ここで言いたいのは,なんでもかんでも便利にしてしまうのが一番よいというわけではないということなんです。

 ある物理の先生が,「近ごろのラジオは色々な機能があって構造も複雑。ラジオを開けて中身を見ても何が何だかわかりにくい。昔のラジオは構造がシンプルだったから,中身を開けてみた時に『これは~の働きをする部品かな』というのがわかりやすかった」と仰っていました。機械が便利になり複雑になったことでブラックボックス化しているということでしょうか。小学生の頃,ラジオやラジコンなどを分解して中身を見るのが好きでした。中身を見てみるとなんとなく「ここは~する部分かな」というのがなんとなくわかった感じがありました。今の機械って中身を見ても基盤の上にたくさんチップが並んでいてよくわからんような気がする。機械を分解して中身を見てなんとなく部品の働きや構造のしくみがわかった感じになるということは,科学や技術へ興味関心を持つ大きなきっかけになりうる。なので,機械のブラックボックス化は将来の理工系人材の育成にとってはあまり良くないことかもしれません。より単純なわかりやすい構造の機械の中身を見て触って考えてもらうという機会があってもいいのかもしれません。

 携帯電話やスマホがなかった頃,好きな子や付き合っている子に連絡を取る時は相手の子の家の固定電話にかける,これが当たり前でした。「お父さんが電話に出たら最悪やな」とか思いながら恐る恐る電話をかける。外出先で待ち合わせをしていて,家を出た後にハプニングがあって遅れてしまいそうな時,連絡手段がないので相手を待たせてしまう。そんなこともありました。不便な時代ではありましたが,だからこそ人と人とのコミュニケーションもより緊密だった,緊密にならざるをえなかったような気がします。子供の友達から家の固定電話にかかってくる電話を受けることで親は子供にどんな友達がいるのか知ることができた。外出先で待ち合わせに遅れてしまった時の謝罪を通して,失敗した時の挽回のためのコミュニケーションの仕方を身に付ける。或いは,そうそう簡単に連絡が取れないのが当たり前なので,事前にハプニングの時のことも考えて綿密に話をする。不便だからこそのコミュニケーション。不便により生じる失敗を通して学ぶコミュニケーション。

 便利さを全否定するつもりはないですが,不便のよさというのもある,ということも忘れてはならないと思うわけです。